「ふたご」を読んだハタチの思うこと



わたしの大好きなバンド、SEKAI NO OWARIの、Saoriちゃんこと藤崎彩織さんが小説を書いた。


「ふたご」


この話を読んでたくさん書き留めたいことが出てきた。

同時に、ハタチのわたしについても言葉にしておきたいとも思った。よくわからないけれど貴重なんじゃないかなって思うから。


文章を書くのは下手だけど、別にいいと思う。書き残すのが目的なんだし、うまくいかなければ別に消してもいい。


ハタチのわたしにとって、SEKAI NO OWARIという存在はとても大切で大きいものだと思う。


大きいといっても毎日毎時間彼らについて考えているわけではない。頭の片隅にいつもいる存在。それが積み重なってるから大きいんだ。ずうっと頭の中にあるものってそうそうない。


彼らのことを知ったのは、五年前の冬。一目惚れならぬ「一聞き惚れ」だった。自分では一聞き惚れだと思ってるけど誰にもいったことはない。だって恥ずかしい…。運命を信じてる人みたいじゃんか。


深瀬さんの声を聞いて、その瞬間好きになってしまった。そんなの初めてだった。


弟がテレビのチャンネルをぐるぐる回していて、その間にMステが映った。たぶん2秒くらいだった。その2秒で好きになっちゃった。すぐに弟からリモコンを奪ってMステに戻した。


これが “SEKAI NO OWARI” か、変な名前のバンドがいることは知っていたけど、まさか今流行りのバンドを自分が好きになるとは。ミーハーみたいでちょっと嫌だなと思った。だって、あの、「セカオワ」だよ?


とかなんとか思ったけど、好きになっちゃったんだからしょうがない。他の曲も聴きはじめた。結果、全部好きだ。どストライクだった。でも「幻の命」の4人の、特に深瀬さんの雰囲気がちょっと怖かった。


それからライブにもたくさんいった。約5年間、なんだかんだずっと好き。熱しにくく冷めやすいわたしにとってそんな存在いままでにはなかった。ずっと好きでいられるものがあるのは幸せだなと思う。SEKAI NO OWARIはわたしの宝物みたいな存在だ。彼らにいいことがあればなんだかわたしまでウキウキしてしまう。関係ない存在なのにね、面白いな。


そんなSEKAI NO OWARIのさおりちゃんが小説を出した。しかも直木賞ノミネートまで!そりゃあ、読むでしょ。好きな人の書いた本だもん、読むに決まっている。




読んだ。

感想を書いておかねばと思った。それに、気持ちを整理しておきたいと思った。でも、難しいなあ。途切れ途切れにはなるだろうけれど頑張ってみる。





「ふたご」を読み終えて、いや、読んでいる最中に「ああ、やっぱりそうなんだ」と思った。「さおりちゃん、深瀬さんのこと『好き』なんだ」。好きだなんて軽い言葉を使うのはなんか違うってわたしにでもわかる。でもそのことについては後で書こう。とりあえず、さおりちゃんの、深瀬さんに対する気持ちを「好き」だとしておく。


たぶん、セカオワのファンであるならみんな(ファンではない人でもそうかもしれない)深瀬さんへのさおりちゃんの気持ちを知っていた(る)と思う。



小説なのに、彼らのことだと思って読むのはおかしいという人もいるだろう。でも、「ふたご」は小説だけど、セカオワが好きで、さおりちゃんが好きで、この本を読もうと思った人ならやっぱり現実のセカオワに照らし合わせてしまうんじゃないかな。きっとフィクションではなくノンフィクションとして読む人も多い。全部が全部真実であることはないけど(ノンフィクションだってそうだ)、これはしょうがないことだ。さおりちゃんがそれを逃れられないことを一番知っているし、受け入れた上で書いたのだと思う。“ 自分の経験をもとにして ”ともどこかに書いてあったような、なかったような。


これが勘違いであったとしても別に構わない。さおりちゃんはやめてほしいと思うかもしれないけど、読み物は書く側じゃなくって、読者がどう受け取るかの方が重要だって誰かが言ってた。


それで、話を戻すと、さおりちゃんが深瀬さんのことが「好き」なのは小説が出る前から明らかだったってことだ。だって、わかりやすすぎる。テレビでもライブでもどうみても、さおりちゃんはいつも、深瀬さんに特別な眼差しを送っている。音楽番組のほんのちょっとの時間でもわかる。他の2人への態度とはやっぱりかなり違っている。本人が聞いたらたぶん嫌な気持ちになるだろうけど、さおりちゃんはすごく「女」だと思う。わたしははっきり言ってしまうとさおりちゃん“ みたいな ”女は好きじゃないな…。でもさおりちゃんは好きなんだ。ずっと幸せでいて欲しい。話は少し離れてしまうけど、月島ではない男性と結婚したなっちゃんはどういう気持ちなのかな?気持ちを吹っ切ることができたのだろうか。結婚したからこそこの小説を出版できたのかな?なんて考えてしまう。



深瀬さんは本当に不思議な魅力をもっている、と一ファンのわたしでも思うけれど、ずっと隣にいるさおりちゃんでさえもそう言う。人を惹きつける選ばれた人間だと。


なんでそんなに深瀬さんを特別に扱うんだろうと思っていた。でも、「ふたご」を読むとそのかけらが理解できた気がした。さおりちゃんと深瀬さんが共に過ごした時間はあまりにも重すぎる、大きな意味を持ちすぎていると。


深瀬さんが高校を中退したこと、アメリカンスクールに行ったこと、パニックを起こしたこと、ADHDであること…事実だけは知っていた。でも、単なる経歴として、知識として自分の中にあるだけだった。今の深瀬さんからいくらなんでもかけ離れすぎてない?かわいそうだと彼の過去を思って泣くことも憐れむこともできなかったし、別にしなくていいと思っていた。いや、別にしなくていいんだ。でも、思ったより何千倍も衝撃的な事実だった。なんだろう、信じられないという言葉が合うな。かわいそうとも思わなかったし、泣きもしなかった。悲しくもなかった。ただただ意味がわからなかった。こんな人、わたしの周りにはいない。ていうか、こんな人生存在するのか…


自分は、冷徹な方だと思う。友達からもよく言われる。ぱっと見は高そうに見えるかもしれないけど、共感能力が低い。だから映画を見ても、本を読んでも入り込むことができない。作品が悪いということではない。だから、この本を読んでも「月島はちょっと電話するの控えたら…?」「なっちゃん月島の状況少し考えあげなよ…」とか思ってしまう。月島の病気や人生についても客観的にしか見れない。


「ファンタジーみたい」とも思った。月島の人生は幻のような、そして嘘のような現実だ。彼の経歴というのは、ファンタジーを追い続けるセカオワにとっては彼ら自身をファンタジーにするための武器になっている。面白くないですか?わたしはすごくツボです。


他の2人についても書いていこうと思う。まず、でぐりん。彼のイメージ、真面目、穏やか、いい人、以上。先に言っておくけど全くディスってるわけじゃない。大好きだ。あんなに「真面目でいい人」を具象化したような人を見たことがない。画面を通して、だけど。でも、それだけじゃなかったんだなあ。(当たり前だ)月島となっちゃんが喧嘩して突然出て行ていって帰ってきたときのでくりんの台詞がとっても好きだった。深瀬さんがセカオワに「必須」であるとすればたぶん一番セカオワに「必要」な人なんだと思う。どうしてあんなに寛容になれるんだろう。まっすぐなんだろう。なかじんと話せる機会がこれからの未来にあるならその秘訣が聞きたいな。秘訣なんかきっとないんだろうけど。


そして、ラジオ。うーん。正直言ってラジオに特に思い入れはない…(笑)いや、ラジオからしたら一個人が何ぬかしてんじゃって感じだと思う。(笑)でも、なんとなくイメージは変わった。お面かぶってて表情見えないし、作詞作曲なんもやってなくてやる気なさそうだし、ツイッターではゲームかおもちゃの話しかしないし…(我ながら散々だなあ。)何かのインタビューで他のメンバーが「ラジオがいることで緩和される」って言ってたのも聞いたけど、へえそうなんだ、くらいにしか思わなかった。なんも考えてないだけでしょ…みたいな。いや、多分これはあっている。でも小説を読んで、セカオワの中ではそれが本当に求められることもあるんだなと思った。いてもいいんじゃなくて、いて欲しい存在なんだな。ラブはわたしの中ではプラス1くらいだったけど、プラス4くらいにはなった。何様だ。ごめんなさい。


あとは、この小説の1番の主軸ともいえる「愛とは何か」という問いについてだけど…うーん、20歳のわたしには難しすぎる。いや、年齢は関係ないのかもしれない。いつになってもわからないのかもしれない。だってだれも説明できていなくない?愛とは〇〇だという人がいても、それって愛の1つの側面でしかなくない?と思う。いろんなところからみてそれをひとつひとつ言葉にするのはできるのかもしれないけど、全てを包括的に説明できる人なんていない。




ひとつわたしが今思ったこと。


「愛」とは「愛について考えること」なんじゃないかな。


これも1つの側面だけど、今のわたしにはしっくりきた。


だって、いまわたしがしていることはきっと「愛」だ。




SEKAI NO OWARIを愛しているから、その愛について考えているんじゃないかって、ハタチのわたしはそう思う。



(さおりちゃんがこのブログを見てくれたらなあ、なんてね。期待くらいしたっていいでしょ。)